---- 天才だって何もないところからポンと生まれる訳ではないですもんね。何かの土壌がないと生まれないし、その土壌が潤っている方が出やすいですもんね。その出やすい土壌を作っていく一端になればという思いが佐藤さんにあるのでしょうか。
そうですね。もしそうなれば本当にうれしいですね。
--- 昔はライターズスクールがそれをになっていたと思うのですが、最近あんまりみないですね。90年代頃まではそろばん塾のようにあった気がするんですが。
ネットが代わりになってる気がします。そこで作品が発表できるから。昔はライターズスクール的なものがそのステップになっていたけど、生徒になってバイトになってそっから小説家になったり、ライターになったり、脚本家になったりって。今は弟子制とかもないから、どうやって脚本家になったらいいのかわからないという質問が結構あるんですよね。僕は脚本家になったのは遅いし、別の分野でやってきたことの経験も武器になっているので、自分の場合はこういうふうにやってきたけど、っていう話が誰かの参考になったらいいです。
--- ネットもいいんですけど、やっぱり顔をみて話してもらうイベントを私は今凄く重要視しています。双方いいことも悪いこともあるんですけど、両方あった方がいいと最近とみに感じます。どこかのネットに書いてあること、何かに書いてあること、それが全てと受け取られることがなんだかあまりに多いような。ネットの悪いところを一つあげるとすると「イケニエ・システム」かなって私は思うんです。佐藤さんがこういった土壌作りや、風通しを考えてやっていることを、佐藤は表に立っているから吊し上げちゃえってニヤニヤしている人もいる気がするんですよ。その悪意が育つ場所はどこかなって考えると人の顔がみえないところなんじゃないかって私は思うんです。
まぁディスられやすいかもね、僕(笑)
--- 一番初めに言う、目立つという点で、そうし過ぎると何が起こるのか? 何もなくなっちゃうことになるんじゃないかって思うんです。何かが起こって何かが出来ていく時って振り子だと思うんですよ。片方にふれて、片方からの力もかかって振り子が振られる。その振り幅が大きければ大きい程エネルギーは強いし、その振り子の風速を感じていることが熱になる、そこにいることが気持ちがいいとみんな知っているのに、もっと熱を求めて振り子のタマ自体をピラニアみたいに食いつくして回ってる。だから何も残らない。もうそれにみんな飽きてるんじゃないかって思うんですけど、何故やめられないんだろうって……すいません、イキナリ質問ではない話しをしちゃって……。
アハハ、いいですよ。あ、ロッテルダム映画祭のことを思い出したよ。僕たちはこうして文字の恩恵に与っているわけですが、外に行くと、それだけだとよくないんじゃないかって思うんです。例えばそのロッテルダム映画祭ですけど、そこはほとんど有志の人がやっていてどこそこの会社とかではないんですよ。だから楽屋的なものもみんな一緒。脚本を書いていると役者さんに会ったり、スタッフさんに会ったりってそうそうないんですよ。でもそこでは色々な人に出会えて、色々な現場の話を聞けたりする。すぐフィードバックする訳ではないけれど、いい影響が多いんです。プラスワンもそういう場所だよね。